おきらく・ごくらく日記

野鳥とゲームとデジタルガジェットの日々

阪神・淡路大震災から20年

本日は阪神淡路大震災が発生してから、今日でもう20年。

多くの方が、被災したり、亡くなられたりした辛い記憶。

私自身も、関西に住んでいて震災を経験した一人ではありますが、身内や知人に亡くなった人はいないのがせめてもの救い。

ただ、当時のことは他の被災された方同様に、今でも鮮明に覚えています。


発生当時の記憶

震災が発生した日、私は当時住んでいた神戸の実家ではなく、勤務先の大阪の会社で泊り込みで仕事をしていました。

当時の勤務先は、ゲーム制作会社で、納期が迫っていたこともあり、数日間の泊り込みの真っ只中。

ほとんど寝ずに、仕事をしている状態で、突然会社の入っていたビルが揺れました。

会社が入っていたビルは、阪神高速のすぐ横に立っていて、少し大きなトラックが通ると、ビルが揺れることはそれまでにもあったので、その時もそのせいかと最初はは思っていました。

しかし、揺れがいつもより長く、さらに激しいことを感じて、これは地震だと分かり、慌てて会社のスタッフと共に、間近で揺れているモニターが落下しないように、抑えに行ったのを記憶しております。

我が身よりも、モニターの心配をしてしまうのが、今からすると、なんだかなぁという気もします。

しばらくしてから、揺れが収まったものの、外を見ると、電線がまだ少し揺れていたので、揺れがかなり強かったことが分かります。

携帯電話より公衆電話

関西デジタルホンという会社(現在のソフトバンク)の携帯電話を持っていたので、自宅に電話してみるも、それがかけられない状態。
すぐに外の公衆電話へ向い、当時の神戸の自宅に電話して、家族の安否の確認しました。
自宅では食器棚が倒れた程度で、全員特にケガもなく無事でした。

地震等の震災時には、携帯電話があまり役に立たない(つながらない)というのは、当時も今も同じで、最終的に一番頼りになる(優先されている)回線は、公衆電話だとこの時に痛感しました。

そのあと、会社のテレビで、神戸の惨状が徐々に明らかになり、これは大変なことが起きていると認識しました。

自動車よりバイク

当時、私は会社までバイクで通勤しておりました。
そこで、会社で同じくバイクに乗っているメンバーとともに、大阪から水や食料を積んで、知り合いや友人、家族の元へ何度か支援物資を運びました。

神戸までの道中、倒壊した高速道路が横たわっていたり、舗装している道路が隆起していたりして、自動車だと思うように進めず、道路は渋滞していました。
バイクは渋滞している道路の脇を通過できたので、時には歩道を走ったり、脇道を使って迂回して、目的地の神戸へ到達できました。

大阪でもコンビニから商品が消えた

最初の頃は、大阪の勤務先の近くのコンビニでも、水や食料が手に入っていたのですが、時間が経つに従って、次第に棚から水や日持ちする食料が無くなって行ったのを覚えています。
私達同様に、神戸まで物資を持って行く人たちが多かったのではないかと思います。

バイクで何度か向かった神戸の町は、建物ががれきと化していたり、焼け野原のような状態になっている地域などもありました。

一度夕方に食料を届けた友人の住む地域では、震災前に見た光景とは大きく異なっていて、街灯などがほとんど失われ、町中で夕方のはずなのに、かなり暗い状態でした。
地面から突き出た水道管から漏れる水のおかげで、水だけは確保できるものの、食料はかなり調達しにくいという話も聞きました。

実際に被災地で生活していた人と、少し離れたところにいた私とでは、かなり体験が違っているとは思います。
それでも、被災地で生活している家族や知人に、少し離れたところに滞在していた自分が出来る限りのことをしていたつもりではあります。

あれからもう20年も経ったんですね。
月日が経つのは早いですが、当時の光景や状況などは、今でも深く記憶として残っています。

もう二度とあのような大きな災害は発生してほしくはないと思います。